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小橋お多福創業者『斎田 甚太郎』

明治36年、富山県西砺波郡石動町(現小矢部市)生まれ。幼い頃に父を亡くし、忙しい母を助けるため小学校に通いながら半日は工場で働く。兵役を経て職を探していた所、金沢で出会った人の勧めで「夜泣き車」でうどんを販売しながら商売のを勉強することとなる。その後うどん店住み込みの店員として働く。昭和2年、彦三の大火があり700軒余りが焼けた、その3年後、小橋近くの場所にお多福小橋店を開店する。

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夜泣き車でうどんの販売

甚太郎20代前半の頃、金沢で商人のやり方を学ぶために「夜泣き車」を始める。当時、店を持ちたい一心の者がそれぞれ夜泣き車を営業しており、その数約80台!なんとも過酷な状況でのスタートだった。石ころだらけの道をやたらむたらと車を引けば湯溢れて無くなっているし、水を入れて沸かしていると遅いと叱られ、ぬるいとまた叱られる。子供に食べさせるからと言って長い間待たされる。そんな中、上手に売るには調査が必要と教えられ、各家庭の仕事が終わる時間をねらいうちすることなどを学ぶ。当時の夜泣き車の契約は、1日制で50銭車代、50銭下宿代、50銭炭代、5銭あんどん油代であった。そして、夜泣き車は麺類普及の一大役目を果たしたのだった。

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姉妹店開店の頃

昭和8年、甚太郎・みさをの長男、太郎が誕生し、のちに小橋お多福2代目となる。東京経済大学、佐伯栄養学校卒。昭和42年に福和商事株式会社を設立。同時に小橋お多福を改装し、長年引き立てられた出前は人手不足もあり廃止。マイカー時代に入り、お客様用の駐車場を購入。うどん代80円に対し、1台の駐車場代が200万円という時代!これは大変と、昭和46年「饂飩処・福わ家」、昭和53年「鬼は外」、昭和61年「釜ごはん・鬼やしき」をオープンし、商いに励む。

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長年の夢、設計士になるはずが…

斎田甚太郎の息子、太郎の長年の夢は、実は設計士だった。ある日父親から「兼六園下お多福」の店舗設計を任されることになり、張り切って設計を担当。しかし出来上がった斬新すぎる外観に当時の風評は「ここは化粧品屋か、喫茶店か?」といったところで、うどん屋としては受け入れてはもらえず、思うように繁盛しなかった。その責任を問われ兼六園下お多福の店長になることを命じられたが、なかなか軌道に乗らず、支払いが滞ることも。困り果てて、うどん仕入先の実家にうどん代を甘えた時は母親に「お前なに言っとる!うどん屋がうどん代払わずに商売できると思っとるか!」と一喝。なるほど納得、これは払わざるを得ない。では他の仕入先に支払いを待っていただきたいと頭を下げお願いに行くと「お多福さんならいいよ」という返事をいただいた。それはこれまでの母親の築いた信頼と実績のおかげと知り、またひとつ勉強させられたのであった。

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明日へ…

近年は、4店舗を「小橋お多福」「饂飩処・釜ごはん福わ家」の2店舗にリニューアルオープン。平成27年「小橋カフェOTABA」をオープンしました。
小橋はしづめにて、たくさんの方々にお世話になり、おかげさまで本日ものれんをかかげております。毎日の物語りを皆様に教えられ、つむぎ続けさせていただくことを心より感謝いたします。
本日もご来店お待ち申し上げております。

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